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柴田昌治さんへの感謝と追悼(前編)〜彼が遺した日本的組織変革の意味〜

このたび、僕が尊敬してやまない柴田昌治さんが、昨年12月31日に80歳でご逝去されました。柴田さんは、僕が現在の仕事にたどり着く大きなきっかけを与えてくださった方です。

心よりご冥福をお祈り申し上げます。

柴田さんが1986年に創業したスコラ・コンサルトという会社は、きらびやかな戦略論を掲げて変革を促すいわゆる「コンサルタント」とは真逆のスタンスで

鎧兜をつけた議論では、本音は出てこないんだと主張しました。

だから、組織で求められるそれぞれの立場や役割をあえて一旦離れひとりの人間としての在り方に帰り「気楽にまじめな雑談」をしようが合言葉でした。

仕事まわりで起きているもやもやや問題意識に目を向け、言葉にしながらチームでその本質を炙り出し、新しい方向を創造していくという「オフサイトミーティング」の発明はまさにイノベーションでした。

その活用事例を1998年『なぜ会社は変われないのか』の本で紹介したところ、35万部を突破するベストセラーになり世の中に大きなムーブメントをつくりだしました。

「会社が社員を変える」という変革論のパラダイム「社員(の想いとネットワーク)が会社を変える」に転換したのです。

この流れを聞いて、トップダウンからボトムアップへというように解釈されるかもしれません。が、本質はまったく異なります。

柴田さんは、経営層のオフサイトミーティングをとりわけ重視していました。

つまり、経営者としての想いを役員チームの中で発露せずして何が経営者かということですね。

だから、一般社員からとか経営からということではなく「システムや構造による変革」から「生身の人間による変革」に重点があったはず。

柴田さん自身はそのような言葉で表現はしてませんが、いま、改めて僕はそのように受け止めています。

ここまで述べてきたようなことを支援する存在として、スコラのコンサルタント(実際は「プロセスデザイナー」と名乗ります)は

自分たちが持つ姿勢として、お客さんに答えを教える存在ではなく「一緒に困ろう、考えよう」という在り方を大事にしてきました。

そんなスコラに僕が入社した経緯は少し複雑です。

僕が入社したのは2006年で、アメリカ企業の人事マネジャーのときでした。白状すれば、僕は日本企業の曖昧さに嫌気がさして35歳のとき(2000年)アメリカ企業へ移籍しました。

すべてが戦略的、合理的に判断される経営や仕事のスタイルは、僕にとっては天国のようで、評価もしていただき

40歳で、次期人事総務本部長の後継にも社長(日本支社長の米国人)と上司から指名されました。

その絶頂期に、スコラが掲載した日経新聞求人欄の最小コマにあった「プロセスデザイナー求む」へ衝動的に応募してしまいます。

年齢上限は40歳で、僕はすでに41歳でしたが、しれっと。

なぜそんなことをしたか?

いま思い返せば、当時、僕は米国本社の方針を受けた日本支社の経営戦略と、日本市場を最前線で支える現場の人たちをつなげることに奔走していました。

が、どうしても現場の想いが経営に伝わらないことに悶々としていたのです。

出版されたときから『なぜ会社は変われないのか』は、僕の座右の書として読み返していました。

ここに解を求めるしかないとスコラの扉を叩いたのだろうと思います。

年収は半分以下になりましたが、清々しい想いでの再スタートでした。

移籍にあたり、迷いはもちろんありましたが、それを払拭してくれたのは、柴田さんの立ち居振る舞いでした。

これまで経験したことのない「未知の可能性」を感じたのです。

常識と思われることも断定はせずゼロベースで疑ってかかる。

スコラ社内でもこんなことがありました。

社員の給与を会社が決めるのはほんとにいいのか?で、社員が自分で給与を決めるしくみをつくったり。

全社員会議で、遅刻することは本当にいけないのかを真剣に議論したり。

正直、うまくいかないことも山ほどありましたが、自分たちでこうありたいと思ったことをルール化して、試行錯誤する姿勢には「未来」を感じました。

すみません、つい長くなってしまいましたので、前編はここまでで、後編は柴田さんとのその後の諍いや、継承するものについて書かせていただきます。

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