日本では「対話」がソフトで安全なコミュニケーションと理解されがちですね。
そのためか、僕は「対話」を「議論」と無意識に併用していることに気づき、どう使い分けているのか自分なり振り返ってみました。
関係づくりや気づきの文脈で、相手の想いや経験を知る営みの場合は「対話」と言っているようです。
相手がなぜそう考えるのか、どんな体験がその発言の背景にあるのかを丁寧に聞き取り、理解しようとする姿勢です。
時には相手の話に共感し、時には自分の価値観が揺さぶられることもあるでしょう。そうした内的な変化を受け入れながら、お互いの理解を深めていくプロセスです。
一方、衝突や葛藤も含み、真摯なぶつかり合いで、新しい価値を生むプロセスの場合は「議論」と言うことが多そうです。
もっとも、「議論」が対立的で攻撃的なものとして理解されることも多いのですが、
僕は、お互いの考えを遠慮なくぶつけ合いながらも、相手を打ち負かそうとするのではなく、そのやりとりの中から今まで見えなかった第三の道を見つけ出そうとする営みと捉えています。
本来、上記はどちらも「対話」と表現するべきと思いますが、敢えて使い分けることで、世の中における対話への誤解を回避しようという試みです。
この考え方は、複数の論者の知見とも部分的に呼応しています。
『問いのデザイン』の安斎勇樹さんは、「対話」の定義を、「互いの意見の背後にある前提に目を向けることで、凝り固まった考え方や関係性を再構築しようとするコミュニケーション」としています。
これは僕が「対話」と呼ぶ営みと本質的に同じです。
相手の発言の奥にある体験や価値観に目を向けることで、より深い理解と新しい気づきが生まれやすくなります。
哲学者の中島義道さんは、「対話」を、ただ言葉という武器だけを使って戦う全裸の格闘技だと表現しています。
日本では思いやりややさしさという名のもとに真実が語られなくなり、風通しの悪い社会になっているという問題意識からです。
これは僕が「議論」と呼ぶものを先鋭化した感じですね。
劇作家・演出家の平田オリザさんは「対話」を、異なる価値観を持つ者同士が話し合い、意見を擦り合わせること。AとBが話し合う中で、Cという新しい概念や結論を生み出すことを目指すと。
これは僕が「対話」と呼ぶプロセスとも、「議論」と呼ぶものとも重なっています。
現時点では、日本における「対話」認識の混乱を避けるため、僕は、2つの要素を使い分けているのですが、
理想的には、相手への深い理解と建設的なぶつかり合いという本来的な「対話」として、いずれはひとつの言葉に統合していきたいです。
真の対話とは、優しさと厳しさ、共感と挑戦が同居する、もっとダイナミックで創造的な営みのはずですから。