おかげさまで、半年かけて書き進めてきた本の執筆作業が、僕の手を離れました。
12月の初めには書店に並ぶ予定です。
「厄介な問題」をズバッと解決する会議のコツ28『クリエイティブファシリテーション』ご期待ください!
さて、その最後の仕上げ段階で、編集者の方と原稿の読み合わせをしていたときのこと。
「ひとり」と「一人」が混じっているので「一人」に統一しませんかと提案を受けました。
それで気づきました。
無意識に「数としての一人」と存在としてのひとり」を使い分けていたことに。
結果的に、特別な意味を込めた「ひとり」はそのまま残すことにしました。
この「ひとり」という言葉にこだわるようになったのは、十数年前に聞いた宗教学者・山折哲雄さんの講演がきっかけです。
山折さんは「ひとり」という大和ことばを、英語の alone とは異なるものとして語られました。
西洋近代社会がつくり出した「個人」という概念を、私たちはあまりにも無批判に輸入してしまったのではないかと。
大和ことばの「ひとり」には、ひとつの定義にくくれない多義性があるとして、こんな例を引かれました。
たとえば、柿本人麻呂の
「あしびきの 山鳥の尾の しだり尾の
ながながし夜を ひとりかも寝む」
という歌の「ひとり」には、孤独というよりも、離れていても待ち人と心でつながっている確信が込められています。
親鸞の「ひとり」には、阿弥陀如来と直接つながろうとする決意の「個」があり、
尾崎放哉の「咳をしてもひとり」には、死と自然に向き合う潔さの「ひとり」があります。
人の数だけ「ひとり」がある。日本人は、この「ひとり」という言葉に、関係性の深みや精神の成熟を重ねながら、生きてきたのだと思います。
だからこそ、僕は「ひとり」を「個に閉じない個立」として捉えています。
それは、独立した存在でありながら、どこかで他者や社会、自然とつながっている「ひとり」。
孤独ではなく、むしろ世界に向かってひらかれた状態です。
俳優の石田ゆりこさんが「ひとりで行動することが好き。でも私はきっと『雑踏の中でひとりでいる』ことが好きなんですよ」と語っていました。
この言葉には、僕の考える「個に閉じない個立」の感覚がとてもよく表れています。
「ひとり」とは、誰ともつながらないことではなく、「つながりの中で自分を律する」ことなのだと思うのです。
いま、日本企業で「キャリア自律」がなかなか進まない背景にも、この「ひとり」の理解が関係しているのではないでしょうか。
「個を尊重しよう」と言いながら、実際には「孤立」や「自己責任」に押し込んでしまう風潮。
本来の「ひとり」の感覚を取り戻すことが、これからの組織やキャリアのあり方を変える糸口になる。
そんなことを、拙著原稿の「ひとり」を見つめながら、改めて感じた次第です。
